帰って来い

[フリウル / 本編終了後 / 帰る場所]


「明日から五日ほど、故郷に帰ってもいいか」
「──おう」
 返事に一瞬詰まったことを、ほんの少し後悔した。
 それを表に出さないように努めて、持っていたパンを一口齧る。普段なら好みであるはずの硬い食感が気になった。口の中が渇いている。あまり噛まないままコーヒーで流し込み、向かいに座るウルフランの様子をそっとうかがう。
 こちらの返事に「感謝する」と礼を言ったあと、ウルフランは朝食に戻っている。その姿は普段と変わらない。明日の朝は一緒に食えないな、と思う。
 ウルフランが帰郷するのはこれが初めてではない。
 年に数度、ウルフランはブランハットへ帰る。陽が昇りきらないうちに出立して、五日目の夜遅く、日付が変わりそうな時分に戻ってくる。
 ロンダキアと同じ旧レドラッド領ではあるが、列車が通っていないブランハットまでの道のりは遠い。
 五日あったとしても、ウルフランの故郷での滞在時間は一日あるかないかだろう。
「コーヒー」
「……ん」
「お前も飲むか」
「あ……おう」
 いつのまにか灰青の瞳がこちらを見ていた。動揺し、言われたことを理解しきらないまま頷くと、ウルフランが二人分のマグカップを持って立ち上がる。向かう先を見て、コーヒーを淹れてくれるのだと気がついた。
 もっと、ゆっくりしてきたらどうだ。
 その背中に、そんな言葉が頭に浮かぶ。浮かぶだけで声にはならない。そんな自分が、嫌になる。
 ウルフランが故郷で長く過ごさないのは、身元引受人である自分から長期間離れるのはよくないと考えているからなのだろう。
 だが、もう数日滞在が延びたところで何も問題はない。ウルフランの不在はドロテアへ報告するが、今さら難色を示されることはないはずだ。これまでの仕事ぶりで、ウルフランはとっくに信頼されている。
 何も問題はない。
 自分の、身勝手なこの感情以外は。
 帰郷すると聞くたび、思い浮かぶ光景がある。ふたつの小さな墓標の前で、祈りを捧げるウルフランの姿。
 一度も見たことがないその姿が、驚くほど鮮明に脳裏に浮かぶ。何も埋まっていない墓の前で静かに祈るウルフランを想像するたび、もうここには戻らないのではないかと思う。いつかのように、自分の前から消えてしまうのではないかと思う。
 傲慢だ。ウルフランが居るべき場所は、最初から自分のところではないのに。
「フリー」
 名前を呼ばれた。見上げると、マグカップを手にしたウルフランが近くに立っている。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。差し出されたマグカップを受け取った。
 礼を言う前に、ウルフランが口を開いた。
「何を考えている」
「……別に、なんでもねえよ」
「…………」
 視線が痛い。誤魔化せていないのはわかったが、それ以上言うつもりはなかった。
 どうせ伝えるなら、ゆっくりしてこいの一言だ。だがその言葉も、やはり口にはできなかった。
 しばらくこちらを見つめていたウルフランは、やがて小さなため息と共に目を伏せた。
 ほっとしながら俯くと、少しもしないうちに頬に触れるものがある。自分よりも体温の低い、ウルフランの手。慣れた温度に、そっと頬を撫でられる。
「……それなら、そんな顔はするな」
 頭上から降ってきた声は、言葉以上に優しく響く。
 そんな顔ってどんな顔だ。聞きたかったが、口を開けば震えた声が出そうだった。
 顔を上げることもできず瞼を閉じれば、触れる温もりをより鮮明に感じて目頭が熱くなる。
 帰ってきてくれ。俺のところに。
 言葉にできないまま、強く願った。願うことだけは、許してほしかった。


―――
再会後、知らなかったとはいえ死んだ妻子のことをさんざん引き合いに出してウルフランの心を傷つけた自覚のあるフリーはくっついたあとでも、というよりくっついたあとだからこそウルフランの妻子にまつわることは何も言う資格がないと思っているし自分がウルフランにとって本当の意味での特別な存在になることはないと思っているんじゃないかな……と常々考えています